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旧軍港(鎮守府)があった呉市の特徴と呉の日本遺産
前のページ「旧軍港市日本遺産~鎮守府があった四市のストーリーとは」で、日本遺産とはなにか、また旧軍港(鎮守府)があった四市の特徴は何かをご紹介しました。
このページではその四市の中で、今回プレスツアー(ファムツアー)に参加した呉の特徴をご紹介します。
呉市の特徴
人口が激増した呉
呉の鎮守府が開庁したのは明治22年。いくつかの町村が合併して呉市ができたのが明治35年なので鎮守府設置より13年遅く、初代、二代市長は海軍出身の方だったそうです。
人口は明治22年頃は2万人だったところ、35年には6万人、昭和11年 20数万人になって国内10番目に人口の多い市となっていたそうです。
さらに戦艦大和が造られていた昭和18年頃は東洋一大きいと言われていた造船所だったため、呉市の人口も40数万人に。造船所で働く人などは住民票などで正確に把握することができなかったけれど、食料の配給簿によると46万人はいたと見込まれています。
ここまでの話を聞いても、軍港や鎮守府があった上で発展してきた呉市ということにも納得できました。
ちなみに平成30年2月末時点での呉市の人口は約22万人です。
艦艇・潜水艦が間近で観られる呉
第二次世界大戦の終戦後に進駐軍としてきたのがアメリカ軍ではなくオーストリア軍がメインで、引き上げが早かったのも特徴だそうです。
商店街や街の雰囲気、食文化を見ても、呉は横須賀や佐世保のアメリカの雰囲気とは違いますね。
また今回のプレスツアー(ファムツアー)中に何度か耳にした言葉ですが、「これほどまでに間近で艦艇・潜水艦を観られる土地は世界的にも珍しい」そうです。
呉市の日本遺産
旧軍港四市(横須賀・呉・佐世保・舞鶴)ということでそのストーリーが日本遺産に認定されたわけですが、呉市では「旧呉鎮守府司令長官官舎」をはじめとして、複数の文化財が日本遺産として認定されています。今回訪問した呉市内の日本遺産に関しては、このあとそれぞれご紹介しますが、以下のページにて紹介されています。
それぞれの場所にはこの▼日本遺産のロゴマークと認定された文化財名が刻まれた柱が建てられています。
鎮守府開庁のため移転した亀山神社
明治22年に呉の鎮守府が開庁したわけですが、それまでは亀山神社という神社があった場所に作られたそうです。移転した亀山神社が入船山記念館から観ることができたので、このページに残しておきます。
(右奥のほう)
(望遠で)
呉探訪ループバスくれたん
日本遺産に認定された呉の文化財のいくつかもルートに含まれているバスがありましたので、ご紹介します。
その名も「呉探訪ループバス くれたん」。運航は土・日曜日、祝・休日(年末年始休み)。
お得な1日乗車券もあるようですので、詳細はこちらのページでご確認ください。